秋葉原〜錦糸町

渋谷で松倉如子と待ち合わせ。松倉さんにカフェでの演奏のオファーがあったため、一緒に話を聞きに行く。30席ほどのカフェ。毎週月曜日に演奏を行っているらしい。軽い挨拶と今後のスケジュールの確認。オーナーの方にクラシック演奏家の派遣の可能性についても少し話をさせてもらう。ピアノが無く、ステージも大きくないので、演奏形態も限られるがこういった場にもBGMではない、本気のクラシックを持ち出していきたい。
話も終わり、はなまるうどんへ。かけ小と卵天で200円。うまいし。素晴らしい。
秋葉原へ松倉さんの外付けDVDドライブを探しに行く。しかし、松倉さんのiBook G3は時代に見放されているらしく、新しいドライブはどれも対応していない。DVDは諦め、CDドライブを買う。当面CDが焼ければ良いのだ。自分の音源をCDにして売る。便利な時代だ。あやかって行こう。
帰り道、部品屋の通りを通る。小さいスイッチやら抵抗やらトランスやらが沢山。松倉さんは得体の知れない部品を70円で買う。長細い透明のプラスチックの部品なのだが、上下に穴が開いている。中にはバネと歯車のようなものが入っているが、組み込まれているのではなく、バラバラに部品の中に収まっている。シェイカーのように振り回していた松倉さんはその部品を開け、中のバネを誤って駅のエスカレーターの溝に落とし、歯車のようなものは僕にくれた。細長い透明のケースの使い道を考えていたが電車が来たので乗り込む。途中で、ふと思い立って僕は電車を降りる。さよなら松倉さん。
来た経路を引き返して錦糸町へ向かう。メガネを取り置きしていたのだった。お金を払うと45分で仕上げてくれた。その待ち時間にすみだトリフォニーホールに向かう。クラシックの音楽ホールだ。前の会社でよく使わせてもらった。2年前の10月にこのホールを使わせてもらって僕が企画したコンサートは「neophilia 〜新奇性の嗜好〜」と銘打った。言わばスタート地点。思い出のホール。名刺を持って開業の挨拶をする。僕が本当の新人のころから知っているUさんと話をした。とても喜んでくれた。事務所の人たちにも舞台の人たちにも本当にお世話になった。また使わせていただきますと挨拶。
メガネは中々良い出来栄え。
電車で翻訳夜話 (文春新書)を開くと村上春樹が翻訳作業において生じる誤解について話している。

僕は翻訳というのは、基本的には誤解の総和だと思っているんですね。だから、一つのものを別の形に移し換えるというのは、ありとあらゆる誤解を含んでいるものだし、その誤解が寄り集まって全体としてどのような方向性を持つかというのは、大事なことになってくると思うんですよね。(中略)いろんな誤解があって、たとえ誤解の総量が少ないにしろ、そのひとつひとつの誤解がそれぞれ違う方向を見てたら、できた翻訳というのは、あまり意味がないと僕は思うんですよ。だから、たとえ偏見のバイアスが強くても、それが総体としてきちっとした一つの方向性さえ指し示していれば、それは僕は、翻訳作品としては優れているというふうに思うんですよ。音楽の解釈・演奏と同じですね。

クラシックの演奏と翻訳の作業には共通点があるように思う。演奏される曲の作者がこの世にもう居ない場合、作曲家が意図していた演奏がどのようなものであるかを断言することは誰にも出来ない。それに僕は、曲は作曲し、世に発表した時点で作曲者の手を離れているのだと思う。書いた小説がその作者の手を離れるように。残された楽譜の上で好き勝手振舞うのが正しいことでは決してないけれど、作曲時から時を経て、様々な解釈が生まれてくるのは当然のように思う。だって演奏者の環境だって様々だ。聴いてきた音楽だって色々。そうして生まれてきた解釈が良い悪いは聴く側が判断することだし、解釈の多様化を押さえつけることは良くないと思う。