「21世紀にこれだけは残したいSPの名演奏」というイベント

ヴィオロンSPレコードの演奏会を聴きに行く。
毎月第三日曜に行われているこの企画には中々毎回は行けていないのだが、今回はシューベルトの特集なのでこれは行かねばと思っていたのだった。
まず交響曲第5番、そしてオーケストラ伴奏の「魔王」「さすらい人」。
最初はSPの音質が気になる。温かい音だなとかノイズがのってるなとか、お、マスターが毎回レコード針を変えているなとか見たまま聴いたままを考える。
その内に何の脈略もなく色んな記憶が頭に浮かび始める。昔会った人とか今一緒に居る人とか、その人たちが言っていた言葉であったりが何でかなと思いながらもばーっと頭を回る。そして気が付くともう音楽しか聴こえない。音質だとかノイズだとかは後退して演奏がただ聴こえる。目を開けると少し風景が違っているのだ。これは何だろうと考えていたら、はとこれはチューニングだろうと気付いた。SPレコードの記憶に僕の体がチューニングしようとしていたのだ。
後半のピアノ三重奏曲第一番の第二楽章が始まったとき、ヴィオロンの道路向かいの団地からボールがバシバシと跳ねる音が聞こえる。子供達がボールで遊んでいる。演奏会が始まるときにマスターが一声掛けに行って収まっていたのだが、また始めてしまったんだろう。ボールの音とシューベルトの音が混じる。前僕がここで演奏会をした時はベートーヴェン弦楽四重奏曲と中央線の音が混じっていたことを思う。そしてフレッシュネスでのクラシックと新宿通りの排気音が混じる音を思い出す。そのクラシックと現在の音のハーモニーに僕は面白みを見いだしていた。だけど一義的に存在するべきは音楽と場所とのハーモニーではなく、音楽と聴き手とのハーモニーではないか。まず僕が耳を澄ますべきは音楽と僕自身とのハーモニーではないか。僕の体が音楽にチューニングを合わすために探った記憶とSPレコードの記憶は同じ時代に属さない。だけどそこにある音楽はもはや忘れられた記憶ではなく僕自身の記憶と同調している。僕という「今」を介してこの阿佐ヶ谷に響いているのだ。それこそが僕が演奏会を持って実現したかったことだろう。と思った。