プリンタ

プリンタにデータを出力することに忙殺された。
妹のパソコンに接続されているプリンタを共有させてもらうため、その設定を試みたのだが、繋がらない。ネット上でエラーメッセージをキーワードに解決策をサーチし、今まで聞いたこともなかったpingという方法も試して、少しずつ原因の解明に近づいていった。最終的な原因は、何てことは無い、ウィルス駆除ソフト「Norton AntiVirus」のファイアウォールだったのだが、それに至るまでに何時間とかかった。知識が足らんのだ。ふー。
その間に電話でのやり取りがあり、今年9月(もしくは10月)にneophilia主催のコンサートを行う事が決まった。場所は日比谷のスタインウェイサロン東京、松尾ホールを予定。詳細は随時このブログにアップしていきたいと思う。半年も先の話だが、まずは目標が出来た。きっと良いものにする。
やっと繋がったプリンタから僕の名刺をプリントアウトする。とりあえず20枚。名刺という文化はいつ始まったのだろう。この小さい紙片が僕を色んな人と繋げてくれる。だろう。
開業の日を3月21日に決める。税務署への届出書類をネットからダウンロードする。見るとわからない部分がある。ネットで探す。日が暮れる。事業主とは孤独なのだという文章を読んだ。そのようだが、わりと平気だ。
村上春樹の原稿流出に関する本人の見解を文芸春秋で読む。この記事に関して書いた内田樹さんのブログが面白かった。

村上春樹の初期の三部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』を読み比べると、最初の二作が「目の前にある材料」で作られた作品であり、三作目が「目の前にない材料」で作られたものであることがわかる。
「目の前にない材料」で作品を作り出すためには、「手が勝手に魚をおろす」だけの技術が身体化していなければならない。
ジュリアン・ジェインズ的に言えば、毎日毎日あらゆる種類材質の魚をおろしているうちに、「右脳」で魚をさばくようになってくる。
おしゃべりをしたり、音楽を聴いたりしながらも、手元も見ないで、魚をさくさくさばけるようになる。
そんなことを続けているうちにある日「そこに存在しない魚」を手が勝手におろしてしまうという「奇跡」が起こるのである。
村上春樹の創作技術を下支えしているのは「ピーターキャット」のカウンターで、客のおしゃべりの相手をしながら、レコードをかけかえ、酒を作り、料理を作り、レジを叩いていたときの経験だろうと私は思っている。
たぶんそのときに村上春樹は「手が勝手に魚をおろす」こつを身にしみこませたのである。
サラリーマンであり批評家であった安原顯がたぶんついに理解できなかったのは、この「身体化された創作技術」というものの価値だろう。
彼の目には村上春樹の作品が「技術が作り出した商品」に見えた。
村上春樹を批判する批評家の多くがその点では同じような言葉づかいをする。
「テクニックだけで書いている」
当たり前である。
作家なんだから。
まず技術があり、材料は「ありあわせ」である。
自分で注文するわけではなく、「あっちから来る」材料をかたはしからさばくのである。
だからこそ、誰も見たことのない、想像を絶した料理が出来ることもある。

僕は村上春樹の本を好んで読む。今回のわりとヘビーなテーマの文章もしかしまた楽しく読んだ。その辺の軽さが好まれもし、敬遠されもするところなのだろう。読み解く努力が必要な文章だって楽しいものだけど、好きな文体というのはやはりあって、以前僕に本を読むよう薦めてくれた友人はそれはすなわち、人それぞれの「好み」だと言っていた。
音楽を聴くこともまた同じ。長い時間をかけ、色々な手法を比べ、自分の好みを発見すると共に自分を確認する作業なのだと思う。もちろん、好みも変わる。いたちごっこだな。楽しいいたちごっこ