明日の神話

pre-neophilia2006-08-15

新橋の日本テレビまで岡本太郎の「明日の神話」を見に行った。到着したのは公開終了時間とほぼ同刻で、巨大な壁画の両側には今まさにカーテンを引こうと係の人たちがスタンバっている。端から移動しながら全体を見渡すとそれを待っていたようにカーテンが閉まり始める。ゆっくりと、でもしっかりとカーテンは閉まって、壁画は見えなくなった。最後まで残っていた観覧客から拍手が起こり、僕も手を叩いた。
遅れてしまったのはアクシデントだったけど、鑑賞する時間、についてちょっと考えることが出来た。
それが良いものであれば、なるべく時間をかけて鑑賞したいと思う。じっくり見て、発見があって、それについて考えることが出来る。そのうち、よし、さて、と作品から離れる。
でも時間が無いのだとしたら、よし、も、さて、も無い。えっ、とか、わっ、とかでカーテンは閉まるのだから。
太郎さんが「作品はそれを見る人の感動によって完成する」というようなことを言っていたのを本で読んだことがある気がする。どんな気持ちが自分の中に起こったか、それまでもが芸術に含まれると。それを思うと、今回の「明日の神話」は、いつかゆっくり見るかもしれない「明日の神話」とは別の作品だったのだ。とも思える。
僕なんかはよーく考えて出した答えが全く見当違いだったということなどはしょっちゅうなので、自分の中で答えを見出せぬまま終わる鑑賞が悪いとは一概に言えない。
明日の神話」は大きくて、鮮やかで、強かった。とりあえず。