第三部はもしかして読んでいないのではないか。

ねじまき鳥クロニクル」を読んでいる。
第三部を読み始めて、内容をすっかり忘れているのに驚いた。第一部、第二部は完全にとまではいかないけど、「ああそうだった」となぞっていけていたのに、第三部は全く先が読めない。まっさらな状態からまた楽しめて良いなと思いながら読み進むてきたのだけど、はたと、もしかして第三部は今まで読んだことがなかったのではないかと思った。この最後の一冊にはとても印象的なシーンが多い。いくらなんでも忘れるわけがないだろうという、前の二冊からの物語が集約してくるスリリングな場面もある。そう、僕は多分第三部を読んでいないのだ。
もともとこの本は二部で終結するはずの物語だった。実際第三部が発行されたのは第二部が発行されてからずいぶん時間が経ってからのことだ。僕は確か十代の終わりころにこの本を読んでいて、多分そのころには最後の一冊も出版されていたはずだと思うのだけど、何かしらの事情により、というか恐らくは手元になかったので、その最終部を読んでいなかったのだ。十年近くも昔に読んだ物語の続きを読む、というのはなかなか面白いものだ。そしてそれがこの本であったというのも面白い。というのも、「ねじまき鳥クロニクル」はこの最終部に来て、物語もより抽象的になり、構成も様々な人称で時系も崩れ語られる。色合いが違う。村上さん自身も少しの時間を置いて書き出したものだろうし、僕なんかは十年も置いて読み進めたのだ。第一部、第二部と僕は(恐らく)エジプトに居て、第三部はそのほとんどを山手線で読んでいる。
この時間が経つ間に、そんなに多い数ではないけれど僕は本を読んだ。自分一人では理解出来なかった心の形を、本を通じて少しずつ理解出来るような気がしたし、本を読んでいるときに向かい合える自分こそが本当の自分なのではないかと感じていた。周りにはそのようなことには無頓着に見える人たちも居て、ただ日々を右から左にこなしていっているように思えた。自分はおぼろげながらその「周辺」から自分を守らなければならないような、抗わなくてはならないような、そんな気持ちを感じていたようにも思う。
でも今はそのようには思わない。結局のところ僕も周辺も変わらないのだ。無頓着なように見えても、実際無頓着であっても、無頓着ではなかったとしても、どの道変わらないのではないか。それは皆平等にそこにあるのだ。見たとしても見なかったとしても、見つめ続けたとしても目を逸らしたとしても、それはそこにあるのだ。
僕は過去に一度だけ(多分)、父親に相談事を持ちかけたことがある。それはそこそこ大人になってからのことで、自分のこれからのことにどのようにして対応していけば良いのか見当もつかない時で、わざわざ日本からエジプトに電話をしたのだ。実際的なアドバイスもちょこちょこしてくれたように思うのだけど、最終的な父の答えは、結局のところ「大して変わらない」ということだった。
ねじまき鳥クロニクル」には様々な人たちの様々な死に方が、それが主幹的なテーマでないにせよ、描かれている。多くの人はとても残酷な死に方をし、ある人は死にたくても死ねず、物語は絶望というところのあたりをうろうろとしながら進んでいく。山手線の中からでは想像するにもちょっと難しいほどの、人生が失われていく模様を追いながら逆に「どの道変わらない」というメッセージを今僕が感じ取るのはどういうことなのか。自分の駅が来ればさっと本を閉じ、ホームに降り立てる自分は鈍感になっているのだろうか。そうかもしれないけど、そうではないのじゃないかと思うのだ。
あと少しで読み終わる。