ダンストリエンナーレ トーキョー 2009

pre-neophilia2009-10-05

青山劇場に「ダンストリエンナーレ トーキョー 2009」を見に(聴きに)行く。
スティーブ・ライヒの「Drumming」に合わせて振り付けされたダンスステージ。「Drumming」は14人の演奏者によってライブで演奏されており、ダンスの振り付けはジネット・ローラン、ダンスカンパニーはオー・ベルティゴ。演奏に参加していた打楽器奏者、古川玄一郎さんから誘いを受けて行ってみた。
ステージは無音で始まる。一人のダンサーが舞台袖から中央へとゆっくり歩み出す。じきにパラパラとステージに集まってきたダンサーは男性4人、女性5人。一人の女性ダンサーが空中に手をかざし、それを待っていたように「Drumming」の演奏が始まった。「Drumming」はライヒが打楽器のみを使用して構成した楽曲で、それこそ気が遠くなるほどの拍が延々と様々な打楽器によって刻まれ続ける。拍は時にずれ、また重なり、少しずつ移行して行く。ダンサーは全員赤い髪の毛、グレイの服、黒い靴。絶え間ない打楽器の拍に合わせて止まる事無く踊り続ける。序盤は慌ただしく男女のマッチングが行われている。ように見えた。4組のペアが作り上げられるわけだけど必ず一人の女性があぶれる。とは言え悲しく孤立する暇も無くマッチングは入れ替わりまた別の女性が一人になる。さて、何を表現しているのかと考えるのだが良く分からない。自分が新婚であることもあり一先ず「夫婦たち」と仮定して眺めてみるのだけど、それにしてはあまりにも頻繁にパートナーを取っ替え引っ替えしているじゃないか。そんなことで良いの?あまり良くないのできっと夫婦では無いとすると、とさらに見る。全員が同じ格好ではあるけれども、男女の線引きは、はっきりと引かれているように思えた。多くの場合、男性は男性で揃って踊り、女性は女性で揃って踊る。でもいやそう思うとバラけたなあ、とやはり良く分からない。良く分からなくなってふとそうだ古川さんが「Drumming」を演奏しているんだ、と演奏に気持ちを移す。「Drumming」はとても刺激的な音楽だ。そしてその刺激があまりにも執拗に繰り返されるものだから刺激を受けている感覚が麻痺してくる。ある楽器、例えばそれはボンゴだったりするんだけど、その音が反復されている内に耳がボンゴの音を識別しなくなってくる。ある匂いをふと感じ取って、でもその匂いを嗅いでいる内にだんだんその感覚が薄れていくように、ボンゴの音を一定のリズムで長い時間聴き続けているとそれは「聴こえなく」なってしまう。あんなに強く叩いているのにシーンの背景に溶け込んでいってしまう。そして今ダンスの意味性は失われて、音の無い楽器のように見えてくる。やっとしっくり来たように思えたのは僕が音楽を聴きにその場に行ったからだろうし、踊りを見に行った人には打楽器の音が動きの無い踊りのように見えていたのかもしれない。結局のところダンスの意味は良く分からなかったけど、仮にそのダンスを「夫婦たち」と解釈して最後まで納得しながら見れていたとしても、その方が楽しかっただろうとは思わない。「良く分からないこと」に感動出来るということは、踊りや音楽のような、言葉に主体を置かない芸術の素晴らしさの一つなのではないかと思った。
外は雨。明日も雨。自転車に乗りたい。